自分に取って良いことをしたと思ってもそれはすべていいこととは限らない。
みなさんはこのような経験したことはあるでしょうか?
それとも意識したこともないですか?
確かにふとおもったらそんなこともあったりするぐらいですかね?
私はかなりあります。
例えばを上げるとキリがありません。
情けは人の為ならずとはよくいったものでお節介も過ぎると嫌われる人になります。
なら、情けは人の為ならずとは一体どのようなことを指してお節介とはどのような人をさすのでしょうか?
お節介とは、まずは意味からしらべてみましょう。
不必要に手助けをすること。と書いてあります。
なら、これからあなたのすることは全てお節介なのでしょうか?
これを私がするとお節介になると思って行動しない人になれということか?
私がかんがえるお節介は誰にも得にならないことをお節介だと思っています。
誰にも得にならないとは一体どのようなことか?
これが誰かの得になるのかどうかというのは、どのようなことでしょうか?
一度深く考えてみませんか?
私が思う得というのは聞いていて誰かが元気になること。
もっとくわしく書くのであれば読んでいてほっこりすることばです。
誰かが見ていて傷のなめ合いと感じ取れる文章があればそれはお節介の可能性がとても高いです
なら情けとは一体?
私がかんがえる情けとは誰にも見返りを求めないこと。
もっというとこれは自分の為にしていると思うことです。
皆さんは、これは誰かの為にしていて誰かの為に有り難うを求めていませんか?
でもそれって結局自分自身の為に行動しているのではないですか?
私は少なからずそういう場面が多いです。
最近読んだ本で叱ると怒るの違いとは?みたいな本を読みました。
怒るというのは感情的になっておこる。しかるは理論立てていうことをしかると書いてありました。
教育において何が間違っているのか正解なのかという区別は私は法律によってのみ判断されると思います。
これを言ってしまうと極論だと思われるかもしれません。
ですが何が正しくて何を間違いかという基準がないのに注意をするというのは私たちの粋すぎた正義感なのではないでしょうか?
つまりはすべて自分たちの都合が良いように言っているだけで結局あなたの考えというのはその場所でしか体験したことのないことを注意する相手に伝えてもそれは狭い範囲での出来事だとおもいませんか?
つまり何がお節介で何が情けかなんていうのは結局は相手に自分が好かれるかどうかで決まることなのではないかなと思いました。
相手を思ってやっていることは結局自分自身のためであり、相手に見返りを求めずにできるこころが情けであると思います。
本当のなさけはボランティア活動や寄付などです。
なにも見返りを求めずにできる心は偽善者ではありません。
意思が相当つよいとても素晴らしい人です。
まわりの意見などきにする必要などはひとつもありません。
あなたが見返りを求めずにできる素晴らしい人は確かです。
このよのなかは見返りを求めずにやった結果失敗したなんて話は聞きますが。
その失敗は失敗ではありません。
あなたが意思を強くもった結果でしかない。
それが自分に取って嫌なら変えれば良いこと。
このよのなかには死ぬほどわがままな人も多くいます。
繰り返していったあなたなりの幸せをみつけたらいいのではないでしょうか?